サウナ史 平安~江戸時代

平安時代
平安時代にもサウナ文化が継続していたことが、僧侶や貴族らを描いた文献や絵巻で見ることができる。当時のサウナは風呂殿と呼ばれ、彼らはそこで汗を流した。利用の際は裸ではなく、湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれる、和服の一種を来てサウナに入っていた。この湯帷子(ゆかたびら)が、現在の浴衣(ゆかた)のルーツになったと言われる。つまり我々が現在も着る浴衣の原型は、平安時代に使われていたサウナ用の服だったわけだ。貴族らが風呂殿=サウナに入るときは、お尻の下に布を敷いていたが、現在の風呂敷(ふろしき)の言葉の由来となっている。風呂敷の原型は、平安時代のサウナマットなのだ。


鎌倉・室町時代
文献に「風呂」という単語が頻繁に登場するが、これも現在のお風呂ではなく、蒸気浴=サウナのことを指すことが絵巻などで確認できる。
僧侶が自分たちで入るだけでなく、貧しい人や病人・囚人らにサウナを開放する、施浴(せよく)も行われた。功徳風呂、施湯(せゆ・ほどこしゆ)、湯施行(ゆせぎょう)と呼ばれることもある。
鎌倉幕府北条政子の供養のためにした施浴のことが、吾妻鏡(あずまかがみ)に記されている。光明皇后・こうみょうこうごうが1000人に施浴を施したといわれる奈良の法華寺・ほっけじには、いまもサウナ施設(浴堂)が残っている。

七堂伽藍(しちどうがらん)とは、お寺の敷地内に建てられた主要な建物を意味する言葉だが、その中にサウナ施設が入ることもあったほど、サウナは仏教に重要な意味を持った。

庶民にもサウナが徐々に広まった。裕福な庶民が親族やご近所にサウナと食事をふるまうこともあった。「風呂ふるまい」と呼ばれる。


江戸時代
江戸時代には600以上の銭湯があったと言われる。当初の銭湯は蒸し風呂でありサウナだった。庶民にサウナが広まっていった。
サウナだけでなく、2階をお客に開放し、お客たちはお茶を飲んだり菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽んだり、家族団らんなど、リラックスした社交の場だった。現在の銭湯と健康ランドの中間のような存在だ。

色々なグッズが客に提供された。当時はぬかが簡単に手に入ったため、人々は米ぬかを使って体の汚れを落としていた。ヌカ袋は番頭で販売されていた。こすり合わせて陰毛を切る手切り石、垢すり、軽石、爪切りばさみ、くしなどは、無料で使用することができた。

湯女(ゆな)と呼ばれる、お客に湯茶・ゆちゃを提供したり、背中を流したり、三味線を演奏したりするサービスがあった。そうした施設は湯女風呂と呼ばれたが、風俗的なサービスも行うこともあった。

明治時代までは、現在のドイツのサウナように男女混浴だった。

江戸の中頃からは、蒸気だけでなく、浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ、下半身を湯にひたし、上半身を湯気で蒸すスタイルが増える。戸棚風呂は、せまい部屋に湯気を閉じ込めるスタイル。まだドアというものが存在しない当時、蒸気を逃がさない工夫として、引き戸で出入口を開け閉めした。しかし利用者が多いと常に開け閉めが行われ、蒸気が逃げてしまう。そこで考えられたのが、石榴風呂(ざくろぶろ)。引き戸をなくし、浴室全体を板で囲み、客の出入り口は下に開けられた出入口のみで、客はかがんで浴室に入る仕様となった。

江戸の時代がすすむにつれて、だんだんと湯につかるタイプのお風呂が増えるのと比例して、サウナの割合が減っていった。明治時代に入るとサウナは廃れ、お風呂=湯舟につかる、となって現在に至る。